病と信仰        


2001年8月15日    代表弁護士 米川 耕一


1. 従業員、顧客のためにも経営者は常に健康でなければなりません。病から救われたいが為に宗教に走る経営者は多いと思います。しかし、本当に信仰で病気は治るのでしょうか。そこで、今回は「信仰は病を治すか。」です。


2. まずは、考察の端緒として、宗教家と病気の関係の実例を見てみましょう。
 確かに、キリストは多くの人を病から救い、奇跡を起こしました。しかし、釈迦は病気に苦しみ最期は粥に当たって無くなっています。宮本武蔵のように道を究めた人も病に苦しんで亡くなりました。マザーテレサ、現ローマ法王も苦しんでいます。あるヨガの指導者は60才で急死しました。自分で予言した死亡時期から10年も早く亡くなった高名な宗教家もいます。46才で亡くなった宗教家もいます。10回以上手術を受けた宗教家もいます。合気道の神様と言われた人、神道界の重鎮も病で苦しみました。
 一方何の信仰も持たずとも元気で長生きしている人もたくさんいます。むしろ、人の気持ちなどお構いなく、勝手気ままに生きる人の方が元気です。


3. このように実例を考えてみると、どうも信仰や誠実さが必ずしも病を寄せ付けず、また、これを治すとは言い難いように思われます。


4. では、私たちは数ある病気のどれかにいつかは罹患してしまうのではないかと、いつも怯えながら一生を過ごさなければならないのでしょうか。釈迦の言ったように病に悩みながら生きるのは人間の宿命なのでしょうか。


5. この問題について私自身はこのように考えています。
 そもそも人間という精緻な存在を造った知性はその無限の能力からして、当然に、不具合を直す術を知っているはずである。そのような知性が、病気を造り、または、その存在を許したことには意味がある。病気になって意気消沈することもあるが、病気と闘い、それを通じて、勇気・克己心・感謝の心などの高度の心的発展を遂げる人が多いのも事実です。ここに病気にかかる重要な意味があります。


6. 病気の存在にこのように重要な意味があるからには、その意味=メッセージを理解し、意気消沈することなく、努力を重ねる心的態度をとれば、病気はメッセージとしての役割を終える、つまり、直る。また、心が整い、病気を通して学習する必要がない人は病気にはならない(ただし、人生を終える手段としての病には別の意味がある。)。このように私は考えています。


7. 従って、病を遠ざけ、健康を維持するためには具体的には次のようにします。

 (1)病気になるのは意味がある。必要性がなければ病気にならないことを理解する。

 (2)病気になった場合は、身体が何を伝えようとしているかを考える。例えば、有ってはならない憎しみが心を覆っている、怒りに燃えているなど。

 (3)自身の心を整える。憎しみ、怒り、嫉妬などの悪しき感情を持たないようにし、円満な人格を目指す。

               以  上













            


米川耕一法律事務所
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