米川耕一法律事務所
今回は、「お礼」です。


            2001年5月2日 米川耕一


1 次のような例にあたった場合、皆さんはどのように思われるでしょうか。
 職場の上司から退社する人への餞別を買ってくることを頼まれ、買って帰ってきたところ、ありがとう、ごくろうさま、つまり「お礼」の一言も言ってもらえなかった。それを指摘するのもしにくい。

 ほとんどの人が不満を鬱積させるでしょう。確かに上司の態度は礼儀に反したことでしょう。しかし、そのこととあなた自身のその状況への処し方は分けて考えなければならないと思います。


2. あなたが不満を持つのは、声をかけてほしいとの期待感をもっているからです。つまり、買い物とお礼の言葉とに対価性を認めているからです。その対価性はこれまでのあなたの人生の中で幼児期からの学習によって培われて来たものであって、何ら先天的な、あるいは、絶対的な真理ではありません。従って、もし、あなたがそのような場面にあってもさらりと受け流していければ、その分生きてゆくことが楽になるはずです。


3. さらりと受け流す為にはあなたの買い物という行為に絶対的な価値を置き、買い物を完了した時点で目的は完遂した、自分はやることは完全にやったと考えることです。「一言」はあってもなくともよい「おまけ」と考えるのです。  

 そうは言ってもなにも声をかけてもらえないとさびしいとの声が聞こえてきそうです。しかし、さびしいと思うのは自分が評価されていないと思うからです。そこで考えてみてください。例えば、「中庸」で述べられているように、大きな山はちいさな土の集合であり、大洋は一滴の水の集合にすぎません。万物は小さなものから成り立っているのです。


 買い物は確かに小さなことかもしれません。しかし、あなたが買い物という一つの仕事をきちんとやり遂げたことは、人生の一こまを精一杯生きたことと評しうるのです。日々の仕事に精力を傾けること、掃除をきちんとやること、歩くこと、全て、こまごまとしたことを完遂することの集合が人生に他ならないのです。

 そして、あなたの脳、四肢、神経、血管は全てあなたの買い物という行為の為に全力を挙げて働いているではありませんか。


4. このように考えてみると、例え一見小さな仕事でも、それを完遂した自分を誉めてあげたい気持ちになりませんか。

                      以 上











            




           

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