183号 落ち込み遺伝子

1.今回(183号)は、「落ち込み遺伝子」です。

A.重い病気を告げられたり、金欠になったり、恋人にサヨナラされたり、・・・・「不運」と言われる事態のとき、ほとんどのヒトは、落ち込みます。
B.一方、道で転んだら、立ち上がろうとします。落ち込むひとはいないでしょう。自転車の練習で転んでも、おなじで、なんとか自転車の運転に慣れようとします。

A.B.いずれのカテゴリーに入る事態も、健康でありたい、お金がほしい、・・・・、ちゃんと歩きたい、自転車の運転に習熟したい等という「望みが叶えられなかった」ということでは同じです。

では、なぜ、A.とB.のカテゴリーで、ココロの反応が、消極v積極 に分かれるのでしょうか。

小生はこう考えています:
 A.カテゴリーの事態は、「失敗」であり、「不運」であると、子供の頃から、親や社会によって、教育されてしまっている。一方、B.カテゴリーは、親、社会によって、「成功に至るステップ」と教育されている。
 その教育が、大脳に刻み込まれてしまっているので、大人になっても、そのカテゴリーどおりの反応をしてしまう。
 従って、A.に属する事態に直面しても、大脳の回路を切り替えるために、思考、言語、非言語的表現を使って「よし、これで目標達成に一歩近づいた」「電球に向かない材料を、ひとつ、発見したぞ(エジソン)」などとすればよい、と思います。                          

中途退職者に対する留学・研修費用の返還請求

 会社は、労働者が留学・研修後に一定期間勤務せずに退職した場合、労働者に対し、会社が負担した留学・研修費用の返還を求めることができるでしょうか?
 会社としては、費用を支出したにもかかわらず留学や研修後ただちに辞められては困ります。そこで、労働者を足止めするため、会社が労働者に費用を貸与する形をとり、留学や研修後一定期間会社に勤務した場合はその返還を免除し、一定期間勤務しない場合には費用の返還を義務づける旨の合意がなされることがあります。このような合意は、労働基準法16条に違反しないのでしょうか?
 労基法16条は、労働契約の不履行について違約金を定め又は損害賠償額を予定する契約を禁止しています。その趣旨は、労働者が「違約金又は賠償予定額を支払わされることを虞れ、その自由意思に反して労働関係を継続することを強制されることになりかねないので、…このような事態が生ずることを予め防止する」こと(サロン・ド・リリー事件、浦和地判昭和61・5・30)、すなわち労働者の退職の自由の保護にあります。
 裁判例をみると、設問のような合意等が労基法16条に違反するか否かの判断において、研修・留学に業務性が認められるか否かが重視されています。
 業務遂行に必要な費用は本来会社が負担すべきであり、留学・研修の業務性が強い場合には、設問のような合意が形式的には消費貸借の合意であったとしても、実質的に違約金の定めや損害賠償額の予定と認められ、労基法16条に違反して無効となります。
 会社からの返還請求を認めた裁判例として、長谷工コーポレーション事件(東京地判平成9・5・26)、野村證券事件(東京地判平成14・4・16)、明治生命保険事件(東京地判平成16・1・26)があります。
 返還請求が否定された裁判例として、富士重工事件(東京地判平成10・3・17)、新日本証券事件(東京地判平成10・9・25)があります。 

182号 身体とココロ

1.今回(182号)は、「身体とココロ」です。

金欠、病気、暑さ、怪我・・・なんでもいいのですが、何か障害が出てきた場合、一瞬オタオタすることがあると思います。
でも、すかさず、「よし、この骨折は超回復だ!」「勝つぞ!」「行くぞ!」と、熱き血潮をたぎらせれば、不安などはすっ飛んで行くと思っています。それによって、免疫力も高まるし、何があっても「生きよう」とする、身体の方向性と、ココロの方向性が一致するわけですから、矛盾がなくなり(生き続けようとする身体と、死を考えるココロの間では矛盾が生じます。)、良い方向に発展すると確信しています。
なお、よく、テレビで、「わたしはガンです。これから闘います。」と宣言して亡くなっていった方が多数おられますが、それらの方々との違いは、身体とココロが斉一化することから生ずる強力なパワーを信じ、万が一、叶わぬ場合は、「どうせ、タダでいただいた命。返せと言うなら喜んで返します。」という大死一番の精神で突撃するかどうかの違いと思います。

共同遺言の禁止について

1 夫婦がともに同一の証書を用いて遺言をする場合、その遺言は有効なものとして扱われるのでしょうか。例えば、同一の用紙に夫婦の連名で「財産Aについては○○に、財産Bについては××に相続させる。」等と記載して、遺言書を作成する場合などが考えられます。

2 この点、民法第975条には「遺言は、二人以上の者が同一の証書ですることができない。」と規定されています。これは、共同遺言の禁止を定めたものです。
共同遺言とは、同一の遺言証書で二人以上の者が遺言をすることをいいます。各自独立した複数の自筆証書遺言が同一の封筒に収められているような場合は、これに当たりません。
このような共同遺言を民法が禁止した理由は、以下のようにいわれています。
① 遺言は、他人の意思に左右されることなく行われなければならない。また、遺言者が自由に撤回できるべきものである(民法第1022条)。しかし、二人以上の者が同一の証書に遺言をしてしまうと、各自の遺言の自由や遺言撤回の自由が制約されてしまう。
② 遺言は厳格な様式行為と言われる(民法第960条)が、共同遺言者の一方の遺言に方式の違反があって無効となるような場合、他方の遺言は有効なのか否かについて問題が生じる。
③ 共同遺言者による遺言がそれぞれの遺言を条件としているようなケースにおいて、一方の遺言者が条件に反したとき、他方の遺言がどうなるのかという問題が生じる。

3 それでは、同一の証書に二人以上の者の遺言がなされていれば、民法第975条に反するとして全部無効となってしまうのでしょうか。まず、形式的には共同遺言のように見えても、一方の遺言部分に方式の違反があるような場合には、その部分は無効であるから、他方の単独遺言として有効となることはないのでしょうか。
この点、AB夫婦が、同一の紙面に「遺産(不動産)の相続は両親共に死去した後に行うものとし父A死去せる時はまず母Bが全財産を相続する」との遺言をし、AB両名の氏名が遺言書に記載されていたケースにおいて、「同一の証書に2人の遺言が記載されている場合には、そのうちの一方に氏名を自書しない方式の違背があるときでも、右遺言は、民法九七五条により禁止された共同遺言にあたるものと解するのが相当である。」と判示した判例があります(最高裁昭和56年9月11日小法廷判決)。

4 また、同一証書に複数の者の遺言がなされている場合であっても、その遺言書が複数枚の用紙により構成されており、各葉を切り離すことによって別々の遺言書と捉えることが可能なケースはどうでしょうか。
この点、遺言書がB5版の罫紙4枚を合綴したもので、各葉毎に共同遺言者Aの印章による契印がなされているが、その一枚目から三枚目までは、A名義の形式のものであり、四枚目は共同遺言者B名義の形式のものであって、両者は容易に切り離すことができたケースにおいて、最高裁平成5年10月19日判決は、「右事実関係の下において、本件遺言は、民法九七五条によって禁止された共同遺言に当たらないとした原審の判断は正当として是認することができる。」と判示しています。

5 では、同一の用紙に遺言が共同で記載されていて別々に切り離すことができず、かつ他に方式の違反などもない場合には、どうなるのでしょうか。
この点、ABの連名ではあるが、Aがすべて単独で作成した遺言について、①当該遺言書を作成することをAがBに話さず、Aが全て単独で作成したものであること、②BはAが当該遺言を作成したことをAの死後まで全く知らず、当該遺言書に自らの氏名が記載されていることも知らなかったこと、③当該遺言書に記載された不動産はすべてAの所有であり、Bが所有あるいは共有持分を有するものはないこと、などを考慮した上で、当該遺言は、一見AとBとの共同遺言であるかのような形式となってはいるが、その内容からすればAのみの単独の遺言であり、Aの自筆証書による単独の遺言として有効であると判示している裁判例があります(東京高裁昭和57年8月27日決定)。

6 上記裁判例の詳細については割愛いたしますが、上記裁判例を見てみますと、同一の証書に二人以上の名義でなされている遺言が共同遺言にあたるか否かについては、単に形式的に見て遺言者の氏名や内容が複数認められるというだけではなく、①遺言作成に対する各共同遺言者の関与の有無、②遺言作成の経緯、③遺言の対象となった財産の権利関係、④遺言の内容や作成に関する各共同遺言者間の合意の有無、⑤遺言内容の相互関連性、などの実質的な面も判断材料となっているように思われます。したがって、一見したところ共同遺言に見えたとしても、常に無効となるわけではなく、一定の場合には有効となる可能性もあると言えます。

7 もっとも、遺言制度は、それぞれの遺言者の最終意思を尊重して、遺言者の死後にその実現を保障するために設けられたものです。そして、遺言者の最終意思を確保し、後々の紛争を未然に防止するため、遺言作成に際しては厳格な遺言方式によるべきことが強く要求されているのです。
ですから、たとえ苦楽をともにしてきた夫婦であったとしても、遺言が無効となるリスクを考えますと、やはり別々に遺言書を作成しておくのがよいでしょう。

181号 求めよ。さらば与えられん??

今回(181号)は、「求めよ。さらば与えられん??」です。

「求めよ。さらば与えられん。」、聖書の有名な言葉です。キリスト、仏陀、その他、突出して優れた方の言葉は真実と思われますが、「求めよ。さらば与えられん。」が真実と思っておられる方は、ほとんどいないのではないでしょうか。
思うとおりになんでも実現できたら素晴らしいけれど、現実には、思うにまかせないのが人生。だれだってそう思います。
では、キリストは嘘をついたのでしょうか?

1.何でも思うとおりに実現したら、世界は大混乱になるでしょう。「世界の支配者になりたい。」と1億人が思ったらどうなるかは明らかです。

2.そんなことはキリストほどの人物であれば、とっくに承知していたはずです。

3.ここで考えましたのは、「誰に対して」求め、「誰が」与えるのかということです。その「誰」は、いずれも神様なのでしょう。

4.では、「神様、お金下さい。」と求めて、神様がお金をくれるのでしょうか。神様がお金を持って、使っているとは思えません。空中からパッとお金が飛び出してくることはないからです。お金は、人からいただくしかありません。

5.すると、求められた神様は、他の人を介して、お金を動かすしかない。

6.ところが、人間は神様の手足ではなく、自由意思をもっていますから、必ずしも、神様の考えるとおりにはならない。

7.実現してあげようと考える神と、自由意思を持った人との対立が、存在するということになります。

8.ここに、「神による、願望の調整」というシステムが不可欠となります。

9.つまり、社会全体、あるいは、関係者全体のバランスを考えて、神様は希望を実現してくださる、ということになるのではないでしょうか。

10.従って、求めれば、いずれ、実現はする、ただし、実現の時期は神様の調整作業におまかせするしかない、あるいは、神様は、願望の本質を検討して、別の形で実現してくださる、と考えるにいたりました。

今現在、希望が叶えられていないとしても、「あー、今、神様が調整してくれているんだなー」と思うと、気持ちが安まるばかりか、より、有り難みを感じるようになってきます。