米川耕一法律事務所

死後の世界

 死後の世界 126号
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 代表弁護士 米川耕一 平成17年5月13日
1.今回(126号)は、「死後の世界」です。

 「死んだらどうなるのだろうか。」だれもが考えるテーマです。

 輪廻転生を説く宗教もあり、それに反対する宗教もあり、霊界を見てきたという人も昔からいます。


2.私は、このテーマは興味深いものではありますが、あまり意味のないことと考えています。

 霊界を見てきたという人も、実は大脳に異常があって、妄想を抱いたにすぎないのかもしれませんし、それぞれの宗教のいうことも証明できることではありません。

 もっと言えば、あなたの見るこの世の全てが、あなたの妄想に過ぎず、あなたが宇宙にたった1人いて、夢を見ているのかもしれないのです。

 何が実在し、何が実在しないのかといった議論自体が無意味でしょう。


 3.一方、暴力的な人と示談交渉をしていて、その人の顔が突然、幼子のような純真な表情を見せることもありますし、美女が恐ろしい言葉を突然吐くこともあります。

 どんな人でも常に心が動いているからです。

 そして、心の持ちようによって、この世界は天国になったり、地獄になったりします(三界は唯心の所現なり。)。

 つまり、天国や地獄は、既に、この世にあるのです。


4.このような考察を踏まえて、私は次のように考えています。

 人間が単なる物質にすぎなかったとしたら、死んだ後は意識すらないのだから、生きている間の苦労を知覚することもないし、他人の思惑は、存在しないのと同じ。

 仮に、死後の世界があって、生前の行いに従って、飴や鞭を与えられるのなら、地獄に落とされるほどの悪行はしていないだろうから安心。

 天国に行くのなら幸せいっぱい。

 どっちにしろ、心配はないのです。

 どうせ一回は死ななければなりませんし、死に行く自分を看取る人たちもいずれは看取られる立場になるのです。

 死の悲しみとは、別離の悲しみに過ぎず、どうということはないのです(死んだらなにもなければ、悲しみもないし、仮に、来世があったら、そちらで良い人をまた探せばいいのです←「愛の対象は類」。)。

 むしろ、死後の世界がどうなっているのか、事実を知るという期待に胸をふくらませて、微笑んで、旅だったらよいのではないでしょうか(人を殺すことが許されないことは全く別の議論です。)。






関連事項

三界は唯心の所現なり。」
 この仏教の教えにはいくつかの解釈があります。
 代表的なもののひとつは、この世は全て心が作り出すものであり、物質は存在しないという解釈で、もう一つは、実在する同じものを見ても心の持ちようで違うように見えるという解釈です。
 ここで、私自身の例をあげましょう。
 飛行機で依頼者と出張する時にスーパーシートを隣席で旅行代理店に頼んでおきましたが、担当者が失念しており、チェックインの時に隣席のスーパーシートは取れないことが分かりました。
 ただし、エコノミーなら取れるとのこと。打ち合わせにはどうしても隣席になることが必須でしたがエコノミーは狭いし、秘密が漏れる可能性がありました。
 私は、自分に悪いことは絶対に起こらないと信じていましたので、迷わず、エコノミーでの隣席にしてもらいました。
 その結果は、面白いことに、スーパーシート代5000円の返金を受けたばかりか、実際に飛行機に乗ってみると、スーパーシートはいっぱいで、逆にエコノミーはがらがらで、エコノミーの方が気兼ねなく打ち合わせが出来ました。
 如上の解釈のいずれを取るにしろ、常日頃、自分には悪いことは絶対に起こらないと「信じていた」ことによるハッピーなエピソードと私は思っています。



「愛の対象は類」

「愛の対象は類」
 私事で恐縮ですが、私がまだ中学三年生のときのことです。
 ある同級生に片想いをし、そのやるせないつらさから学校を休み、区立図書館で一人で時間を過ごしていたときがありました。
 修学旅行にも行かないと宣言しましたが、周囲の人は、何故私が突然そのような宣言をしたかは知る由もありませんでした。
 時間が経っても、切ない想いが募るばかりでした。
 その後しばらくして、突然、「私の恋愛感情の対象はその女生徒ではなく、その女生徒の属する類(るい)である。」と悟りました。
 つまり、気品のあること、聡明なこと、やや陰のあること、顔の特徴などいくつかの私の好きな要素を持った人であれば、その特定の女性に限られることはなかったと悟ったのです。
 このように書きますと、反発や失望を感ずる人もいるでしょうが、事実は「愛の対象は類」なのです。
 この理が分からないばかりに、離婚に際して子の親権に異常にこだわったり、配偶者が亡くなると意気消沈してすぐに後を追う人が出てくるわけです。
 人間にとって最も大切なものは「自由」です。
 時間の自由、お金の自由、健康という肉体についての自由、存分に仕事ができるという自由、人間関係の束縛からの自由、発想の自由・・・です。
 子供の親権が得られなくとも、面接交渉権は必ず得られます。
 なぜ親権を得たいのかということを深く考えれば、面接交渉権が得られれば、我慢することはできますし、子に対する愛情を他のことに振り向けることも出来ます。
 配偶者と死に別れても、愛の対象が類であることを理解すれば他の異性と交際すればよいのです。
 現に私が70歳代の方に「好きにおやりなさい。」とアドバイスし、細胞が若返って、元気溌剌となった例はいくつもあります。
 また、この理が分かれば、ストーカーや不幸な犯罪も大幅に減るはずなのです。
 「愛の対象は類である。」この理がわかれば、なにも修行などをつまなくとも、個々のものに対する執着心はなくなり、「悶々とした」苦悩などもなくなり、人間本来の自由を取り戻すことができるのです。

     以 上     
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