2002年1月9日代表弁護士 米川 耕一
1. 今回は、「誠意」です。
まず二つの例を挙げましょう。
吉田松陰は幕府に捕縛され、裁きが迫ったときに、誠意を尽くして幕府の役人に話をすれば必ず分かってもらえると信じて、そのとおりの行動をしましたが結果は死罪となりました。
また、我が子を道連れに自殺する親は、程度の差はあれ、子供を残して死んではあまりに子供がかわいそうだという気持ちでいるでしょう。
その意味では誠意を尽くしたつもりでも子供の立場に立ってみればやりきれないでしょう。
ある哲学者が「日本人は誠意に大きな価値を置いているが、誠意がありさえすればよいのか。」という疑問を呈したのはこのようなことを考えてでした。
2.以前にも述べましたが、「中庸」は、誠意は万物を育てるとし、それに至高の価値を見出していますし、「至誠天に通ず。」ともいい、日本人が誠意を高く評価することは今でも変わりません。
しかし、冒頭の例を見てみると確かに「誠意さえあればよいのか。」という疑問も尤もでしょう。
3.さてここで、会社経営について考えてみましょう。
顧客へのある製品の販売を例にとって考えてみると、自社製品よりはるかに優れた他社製品があった場合、自社製品を販売することは顧客に対して誠意がないことになるのでしょうか。それとも自社製品を売ることは自社に対して誠意を尽くすことになるからよいのでしょうか。
4.優秀なセールスマンは、他社製品の長所をほどほどに挙げ、その上で自社製品を最大に美化して売り込むでしょう。
それは、その誠意ある態度が将来への布石にもなり、大局的に見た場合、そのほうが顧客ばかりか自社のためになるからです。
5.このように「誠意」は、その向けられる対象がありますし、その強度=濃淡も考えなければなりません。
その意味で「誠意」はベクトルをもった心持ちといってよいでしょう。
6.思いつきでがむしゃらに誠意を尽くすのではなく、「誰に対する誠意か。」「ある人に誠意を尽くした場合、他の人に不誠実となっていないか。」「誠意の程度が過ぎていないか。」「かえっておせっかいではないか。」など目的達成のために熟慮を尽くした上で、誠意の方向性、濃淡を選択する必要があるわけです。
「誠意」が 「中庸」というタイトルの古典の中に記載されているのはこのようなことを考慮してのことであると私は考えています。
以 上
(次)
Copyright © 1999-2002 yonekawa koichi , all rights reserved.