2003年7月31日 代表弁護士 米川 耕一
今回は「純八とノン」です。
純八とは、ご近所に住む女性Jさんの胎内ですくすくと育っている男の子です。
ノンとは、ご近所の女性Kさんが実家で飼っている大きなシャム猫のハーフです。
JさんとKさんは同じ職場に働く友人同士です。
距離は、約400キロ離れていますが、純八とノンは、今年の11月から同時代を生きることになります。
ふたりに共通することがあります。
二人とも生きているのですから、体内では代謝が行われています。
雨として降った水は、蒸発して雲となり、西から東に移動し、また雨となって遠く離れた場所を潤します。
ノンが排出した水の分子を遠く離れた純八が飲むことも十分あり得ますし、二酸化炭素が光合成で酸素に変わり、それを純八が吸収することもあるわけです(原子で考えても同じです。)。
そして、その水や酸素は純八の体を構成することもあります。
このように考えれば、二人、さらに、全ての生物・無生物は、実は、息づく地球の一部を構成していると言えるわけです。
さて、仮に、ある時、純八とノンが出会ったとしましょう。
純八がノンに「やあ。」、ノンが純八に「ミャー。」と挨拶します。
純八には、お母さんJさんがいます。
ノンには、飼い主Kさんがいます。
二人が挨拶をしたのは、JさんとKさんが友人同士だからです。
つまり、本来、全く関係のない純八とノンが共通項を通して、挨拶する関係に変容したわけです。
では、JさんとKさんは、なぜ、他の存在の共通項となりえたのでしょうか。
普通は、偶然職場が同じだったからと考えるでしょう。
しかし、私は、偶然同じ職場で働くようになったとは考えません。
Jさん、Kさんを取り持つ、さらに別の共通項的存在があると考えています。
もっと言えば、Jさん、Kさんが知り合うことは必然であったと考えるのです。
同じ職場で働くことにより、互いに切磋琢磨します。
その切磋琢磨をさせるように「配する」存在を感じるのです。
人間関係には、一見嫌な関係もあります。
しかし、どのような関係であっても必然的に結びつけられたと観ずるならば、それを克服することによって、必ず何かを修得出来る、即ち、嫌な関係などは、本来、存在しないことが理解できるのです。
以 上
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