81号
2003年9月26日 代表弁護士 米川 耕一
今回(81号)は、「メッセージ〜形式にとらわれずに。」です。
道を歩いているとOL2人が話しながら近づいてきました。
一人が、溜息をつきながら、「そうよね。理想と現実は違うよね。」と言っていました。
2人の背後のビルの壁には、サラ金のポスターが貼ってありました。「望みはかなう。」と。
つまり、2人は「望みはかなう。」というメッセージの前を素通りして来たわけです。
さて、視点を変えてみましょう。
そのポスターがサラ金の宣伝ではなく、大成功した実業家や苦難から立ち直った人物の本の宣伝だったらどうだったでしょうか。
少なくとも2人はその本に関心を持ったことでしょう。
私は、全ての出来事には有用な意味があると考えています。
そして、そのメッセージは、思いもよらない形式で発せられます。
かつて、私は、厳しい示談交渉で相手方代理人からコーヒーカップを投げつけられたことがあります。
咄嗟に、私は、その不愉快な出来事の持つ有用な意味を探りました。
乱暴な態度ではありましたが、相手方代理人には、事件処理に対する気迫、執念が満ち溢れていました。
以前にも申し上げたとおり、ある出来事から何を図としてとらえ、何を地としてとらえるかという選択を私達は常に求められていますし、選択の自由を有しています。
私自身の体験を例にとれば、コーヒーカップの投げつけを図とするか、あるいは、それを地として、気迫、執念を図としてとらえるかは私が選択することができたわけです。
そして、相手の気迫、執念を図としてとらえた結果、自分には、その時、気迫、執念が欠けていたことに気付き、自分の姿勢を強い方向へ修正することができたのでした。
冒頭のポスターについて言えば、「サラ金」を図としてとらえれば何も残りません。
しかし、諦めかけていた時に現れた「望みはかなう。」と図としてとらえれば、諦めずにもうひと頑張りしようという意欲が湧いてくるのです。
その結果、理想=目標の実現に近づくのです。
釘を踏んでも、雨漏りがしても、風邪を引いても、何があっても、そこから有用なメッセージを汲み取ろうとする人だけが輝かしい人生を歩むことができると私は信じています。
以 上
(次)
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